「かなし」いう言葉を考えてみる。漢字でかけば「悲、哀、愛」等々と記されるのであろう。これら漢字に対する殆どの外国語は、例えば英語など異なる単語で対応するに違いない。
私の幼き日の記憶である。明治四五年生まれの母は地方都市の町場の人。その母と隣り近所の主婦たちの四方山話の中で耳にした「かなし」にまつわるお話。ある婦人が亭主に愛想を尽かして別れたいんだが、「こどもがカナシクテ別れられない」そのような内容であった。
後に中学の古文で「かなし」には「可愛い、愛しい」という意味があることを知る。けれど現代人の母たちがそれをその意味で用いることに、少し違和感を覚えつつ年月は過ぎた。
地方には古い日本語が残っている。いわゆる柳田國男の方言周圏論を知るにつけても「悲と哀と愛」を「カナシ」と一つの言葉で済ましてしまうのは、日本語の貧しさを示すものなのか、あるいは豊かさを物語るものなのかわからなかった。
三十代半ばのことだ。二人目の子どもを出産したばかりの妻の何気ない振る舞いに、その可愛らしさに涙が出た。その時、ああそうだったのかと思った。「涙が滲み出てくる心理」これが「カナシ」の本幹なのだと悟った。日本語とは根っこにおいてこのようにできているのじゃないか。その上で思う。民族から言語を奪う行為だけはけしてしてはならない。
日本が米英その他に対して戦いを挑んだことには賛否色々あるだろう。当時の世界情勢を考えれば、私などに軽々に判断はできかねる。でも過ちがもしあるとしたなら、最大の過ちは朝鮮半島の民からその言葉を奪おうとしたことにあるのだと思う。