鬼丸凜太の随想&創作&詩&日記

サウダーデを心に沈めた漫ろ筆。日曜詩人としての余生。

パプペポン子のお仕事(散文詩)

 弥子さんはその日、珍しい光景を目にした。四匹の猫が仲良く頬をならべて散歩していたのだ。その後ろを、帽子を目深にかぶった、老人なのか少年なのかはっきりしな人物が歩いてくる。猫は気ままな生き物だから、ありそうでいて、なかなか出会えない景色に違いない。六十九歳になる弥子さんは歩みを止めて口をあんぐり開けながらそれを眺め遣った。自分の家にも偶々猫が四匹いる。

 道は二人の大人がようやくすれ違える幅であった。向こうからやってきた猫の後ろの人物は、立ち止まった弥子さんが道を譲ってくれたものと思ったのだろう、帽子の庇に手を軽くそえ礼を言いながら通り過ぎる。その声は年恰好だけでなく、性別も定かならないものだった。弥子さんは礼の言葉に応える余裕もなく、口を半開きにして振り返り猫のカルテットとその人の後ろ姿を見つめていた。猫たちの尾はぴんとはねあがり、まるで手を振ってさよならをするようにも見えたが、もちろんそれは弥子さんの思い過ごしに違いない。弥子さんはくるりと体の向きを変え散歩を続ける。なんだか胸の中に腑に落ちないものを感じながら。

 再び歩みだして十四、五歩ばかり行ったときだったか、すれ違い様ふと感じた違和感の正体に思い至った。さきほどの人物の「ありがとう」の声のことである。性別も年齢もはっきりしないのはもう言ったけれど、そればかりではなく、その聞こえてきた場所のことなのだ。あの声はあの人の足元から聞こえてきたのではなかったか。もっと言えば、頬を並べて歩く猫たちの間からだ。弥子さんはぞっとして、彼らの方をもう一度振り向いた。まるで彼女がそうするのを待っていたかのように猫たちはさっきよりもっと高く尾を立ち上げ、飼い主もその傍らで右手を上げて小さく恥ずかしそうに振っていた。背の向こうの残照のため、逆光の中にある彼らの表情はよくわからなかったが、みんないたずらっぽく笑っているようだ。弥子さんは再び口をあんぐり開けてウルトラマリンの空を眺めた。

 弥子さんはこの頃楽しい夢ばかりを見る。夢に出てくるのは懐かしい人々が多い。父や母や兄や姉たちを含めて。もちろん、友人やちょっとした知り合いもいる。でもどうしても思い出せない人々がいた。例えば、あのおばさん誰だっけ。また顔に憶えのないおじいさんが渋い役柄を演じていた。あの男の子、幼なじみに似ていなくもないけれど、あんなものの言い方をする子ではなかった。危ない場面で助けてくれて優しく自分に接してくれたあの若者はいったい何者なのか?目が覚めれば、その殆どは忘れているのだが、あんまり美しい夢を見たときは、その残り香をかぐように暫しぼんやりしたひと時を過ごした。

 そのような夢から覚めたときはほかほかとした心地だった。夢の中で自分を救ってくれた人や楽しませてくれた人たちに、ありがとうと言いながら小さな伸びをすると、猫のパン子、プン子、ぺン子、ポン子も一緒にあくびをした。彼女らはいつも弥子さんに寄り添うようにうずくまっている。名付けにピン子だけ抜けているのはそういう名前の芸能人を憚ってのこと。

 四匹の猫たちは、人間の夢の中に入り込む能力をもっていた。弥子さんが恐ろしい夢にうなされていれば、そっとそこにすべり入り、美しい夢に繕い直してあげた。もちろん彼女ら自身色々な登場人物に扮することもあった。でもはたから見れば、猫たちはただ、ぷうぷうと心地良さそうな寝息を立てて眠っているとしか見えない。そう、夢の中ではないけれど頭を並べて歩く猫たちとの奇妙な邂逅も、パン子、プン子、ペン子、ポン子四姉妹のしわざだった。彼女たちはこんなお茶目なこともしてみせる。

 猫たちのこのお仕事は弥子さんにだけではなかった。半年前、夫の眞さんが病に倒れ、間もなく自然の懐へ帰ろうとしているときもそうだった。眞さんがあんなに幸せそうな穏やかな顔で、弥子さんたちにありがとうやさよならを言えたのも四姉妹のはたらきのおかげである。

 ある秋の一日、柿の実のすき間から夕焼け空を覗くあたりに白髪が見えた。眞さんに似ていた。

 縁側の揺り椅子で編み物をしながらいつの間にかまどろんでしまった弥子さんの姿は、愛らしい静けさを湛えて眞さんの目に映った。足元には猫たちと、孫の律と菜子が遊び疲れて眠っている。二人はとても仲の良いいとこどうしだ。どちらも弥子さんの近所に住んでいる。その様子を目にして眞さんは、心から安らいだ面持ちで微笑んでいる。妻の弥子さんをたった独りにして旅立つことがただ一つの心残りだったのだから。だから大好きだった柿の木を目指し時々その魂は帰ってきた。

 眞さんはありがとうと言ったようだ。律と菜子へ、そして誰よりパン子、プン子、ぺン子、ポン子へ。

 気配を感じて目を覚ました猫たちと、眞さんの目が合った。眞さんと彼女たちが静かにウインクを交わす。

 四匹の猫の声が眞さんの耳朶をくすぐる。

「弥子さんが眞さんのところへ行くまで、私たちがちゃんと守りますよ。だから安心してね。恐い夢や寂しい夢なんか見せないわ」

「でも、君たちのほうが先に逝くってこともあるんじゃないのか?」

 眞さんがそう返した。猫たちは一瞬むっとした。眞さんはあまり働き者でないくせに、口だけは鋭いところがある。彼女らは互いに顔を見合わせ、無言の会話をしているようだった。猫たちは言うのである。

「律くんと菜子ちゃんに、私たちの力をこっそり分けてあげましょう。まわりの人にはもちろん、あの子たち自身にも気付かれないようにしてね」

「ありがとう」

「でもね、そもそも私たちのこの力はほんとは誰もがもっているものなんですよ」

「へえ」

「気が付きませんでしたか?眞さんが生きているとき、恐ろしい夢を見たこともありましたよね」

「そりゃあるよ」

「うなされている眞さんの手を弥子さんが優しく撫でていたの、知ってます?」

「いや、そんなことあったかな」

「あったんですよ。眞さんが弥子さんの背なかをさすっていたこともあるでしょ」

「うん、あるね、それは憶えてるよ」

「そういうときは、私たちが入り込まなくてもよかったの。お互いに体をさすり合って、小さな小さな嬉しい夢を与え合っていたんですもの。眞さんの病気が篤くなって、弥子さんの心も弱くなってからよ、私たちのお仕事が忙しくなったのは」

「そうだったのか」

「私たちのこの力はあらゆる存在がもっている優しさの力を凝縮したものなの。ここぞというときに、かたまりで出すから、超能力と思われるのよね。素直に少しずつ表に出せば普通で自然な力なのよ。例えばね、今これが最期かもしれないって思えば、逝こうとする人のおでこを撫でたり、髪を梳いてあげたりするでしょ。あの行為をストーリーにして、夢の中で組み立ててあげてるだけ。わかる?ほんとはやろうと思えば誰でもできることなのよ」

「うん、君たちの言ってることはわかるよ。でもそれがなかなか人間ってできなくなってるんだよな。だから、弥子のこと、あらためて頼みたくて、こうやって出てきたよ」

「安心した?」

「うん、ありがとう、パン子、プン子、ペン子、ポン子。君たちがこっちに来たらまた炬燵の中で、おならをかがせてやるからさ、いつの日かまたみんなで楽しくやろうじゃないか」

「おならは勘弁してくださいよ」

 猫たちは声を揃えて言った。律と菜子が何か寝言を言っている。遠くで、桐の葉の落ちる音がした。