鬼丸凜太の随想&創作&詩&日記

サウダーデを心に沈めた漫ろ筆。日曜詩人としての余生。

爽籟を聞きながら(創作)

 天沢の説教もなかなか板についてきたな。安宮と高緒は目を見交わして微笑む。自在に音吐を操るのはさすが俳優を目指していただけのことはある。廃校を改造した集会場は今、静かな爽籟(そうらい)の中にあった。

 

 十年前、三人の若者がくすぶっていた。天沢京助は私立高校の化学教師。女生徒と次々に恋愛騒ぎを引き起こし、勤め先もそのつど替え次第に堕落してもいった。当時、貿易会社を営む女社長の庇護の下にあった。とびきりの美貌故に荒びの翳が一際濃い。

 安宮享は宗教学専攻の研究者の端くれだったけれど性格が病的に暗い。指導教授とも折り合いが悪く、ある年の夏休み明けの一日、教授の脳天に数本残る毛髪を発作的に吹いてさよならをした。小出版社の校正係をしていた。

 高緒公継は法律に通暁している。と言っても根が怠け者だから法曹として生きるほどの勉強はしていない。とにかく何をするにも億劫というほうで、小用さえ誰かに代わって出してもらいたいという男だった。一方で悪知恵もはたらくたちだ。そんな折にはなかなかに張り切る。法律事務所で事務を執り、楽して大金を得るための策を常に練っていた。怠惰なのかまめなのか、面妖な人格の所有者と言える。

 三人は学生時代からの下宿に住み続けていた。そこは本来学生が対象なのだから大家としては、三十路になんなんとするはっきりしない顔の連中にいつまでも屯(たむろ)されるのは、営業上好ましからぬことと思い続けていた。しかし、十代から世話してきた彼らを無下に追い出す気にもなれず、居座るのは自分が慕われているからだと思えば可愛くさえある。   

 彼らも時には役に立つこともあるのだし。と言うのは下宿の学生が争論に及んだ際、止め役となり説諭を加えた上、酒を買ってやって収めたこともあるにはあったのである。小さな地方都市、大学の数も知れたもの、争った学生が彼ら三人の後輩ということもままあった。

 三人は学校も異なるし深い付き合いをした仲でもない。ただいずれもこの世で息をすることに対し切実さが希薄で、根無し草に似た脆さを互いに嗅ぎ合って肩を寄せ合い、影のようにとぐろを巻いていただけなのである。

 晩夏、行き合いの空が深さを増す頃、安宮の様子が少し変になった。もとより陰気な男ではあるけれど、休日などぼんやり雲を眺めては溜息を吐く様が異様である。分厚いレンズの眼鏡をした小太りの、あまり見栄えのしない男が終日陰鬱なる感傷に沈む様は、傍(はた)から見ていて甚だ薄気味が悪かった。

 そればかりではなかったけれど、それが直接のきっかけとなり、三人で旅行でもしようかという相談がまとまった。長めの休暇を取っても周囲に甚大なる影響を与える人間は一匹もいない。よしんばそのままフェードアウトしてくれても一向に構わぬ輩であった。女社長から天沢が車一台を借り受け、これといって当ての無い三人旅がこうして始まったのである。

 そのお婆さんは彼女なりに悩んでいた。右せんか左せんか、株か何かとにかく資産運用に関わる事柄のようだ。似たような年格好の取り巻き達に囲まれてどちらとも決めかねているらしい。三人の旅行の初日の宿泊先は海に臨んだ温泉町だった。浴衣姿の彼らがぶらり立ち寄った居酒屋でのことである。例の如く朦朧とした顔を並べ隅でちびちび呑(や)っているところへ、年輩の一団が繰り広げる景気の良い話が聞こえてくる。それを耳にするうち、徐々に能天気三人組の旅中の心が浮き立ってきた。

 天沢が銚子を手にふらふらと立ち上がった。彼女らに近づくと、脇からぬうっと顔を出す。

「まま、一献差し上げたい」

 紅い顔した見知らぬ若者が蹌踉(そうろう)と、それもいきなり現れたものだから、その辺りに小さなパニックを来したけれど、見れば眉目秀麗なる若獅子だ。お婆さんとその仲間は興がった。はしゃぎ合いながら返杯をし、安宮、高緒二名をも誘うと場は一層賑やかさを増していった。

 天沢の酔いは募り、ますます調子づく。悩める当の婆さんに半ば据わった目を向けて、選択肢のこちらを取るべしと厳かに宣言した。無論酔余の戯れ、でたらめもいいところだ。しかし麗しい瞳の据わり方が少々もの凄いのと、年寄とはいえやはり美形に心を動かされるのであろうか、天沢の言葉に従って早速その場で関係方面に電話をした。迷っていたとは言え、お婆さんにとって酒席で即決できる程度の金高であったのだろう

 翌日、小さなお祭り騒ぎが出来した。寝坊していた三人の宿を婆さんと先夜のその取り巻き達が襲ったのである。旅館の人たちは必死になって止めたのだが、婆さん、その界隈の顔役であるらしくとうとうその圧力に押し切られたのだ。

一行は部屋の襖を乱暴に開け放つと、寝惚け眼の若者達の中に天沢を見つけるや突進し、抱き起こしかつ窒息せんばかりに抱擁しては、感謝の言葉を連ね出した。天沢の酔った脳みそが言わしめた御託宣が的中し、小金を貯め込んだ彼女の身代にさらに思いがけぬ財を積み加えてくれたらしい。嬉しさのあまり老婆の一群は、縁起の良い若き客人(まろうど)らを豪遊させようと腹巻に札束を挟み、勇んで乗り込んできたというわけなのである。

 豪遊の話には心が揺れたけれど、限られた休日と旅程のことを思って申し出は断った。相手は落胆したものの世慣れた婦人らだ、悪止めはしない。それではと言って、腹巻に飲んできた一本をぽんと天沢に渡し、廊下を悠然と渡り去ったのであった。

 呆けた顔が三人前残された。彼らにしてみれば一朝にして御大尽に変身したことになる。宿を後にした車中で頗る軽躁にはしゃぎ回った。暗い皺の刻まれた安宮の頬さえ心持ち明るいくらいだった。

「なあ、おい、宗教団体でもつくらないか」

 大声で喋りまくっていたところへ、急に真面目な声でそう言ったのは高緒だった。

「どういうことだい」

「ひと儲けしようってこと。いいか、酔った挙句の戯(ざ)れ言ひとつでこの札束だぜ。三人で知恵を絞れば丸儲けができるんじゃないか」

 安宮と天沢が互いを見合う。なるほど予言者めいた声音で言い放ったたったの一言が、帯封をした札に化けた。世の中には如何わしい宗教家が無数にある。覚めた頭ならどうしたって首を傾げるはずのごまかしが、その中にどっぷり浸かった信者らには見えない。思えば、形だけでっち上げるのならここにいる三人がチームを組めば何とかなるのだ。種々の宗教に通じている者がいる。法律的な問題に対処できる男もいる。そして何より、カリスマ役にふさわしい類稀なる美丈夫がいた。

 二日目の宿りの山峡(やまかい)の温泉旅館は、彼らのいんちき宗教団体設立準備会議の場となった。音頭取りは言を俟たず高緒である。

「教祖は天沢だ」

 他の二人は異議無しと頷く。

「安宮、教義を作ってくれ。神道でも仏教でもキリスト教でも、ふん、その他まあ何でもいいや、いい具合に見つくろってこね上げてくれ。女こどもが喜ぶようなのがいいな。それと、活動場所の出だしは僻地に限る。擦れてない面々をたぶらかして、成功したら中央に進出だ。ふん、そのつもりで拵えてくれ」

 安宮の目が光り唇に不敵な笑みが浮かんだ。大金の転がり込む夢を見る高緒の心は軽い狂騒の中にあり、こうなると普段とは対極の精力漲る守銭奴が現出した。

「あとの事務仕事一切は俺がやる。問題は金だ。二人とも今の仕事は諦めてくれ。その上で貯金を出し合う。それから今朝貰ったこの一束の札、今んとこ、これが我々の資金だ」

「なあに、久我さんにも出させるよ。儲け話と聞いて黙ってる女じゃない」

 久我とは天沢に旅の車を提供した貿易会社社長だ。かつて俳優を夢見た男は今では女から金を引き出す術に長けた一介のジゴロに過ぎなかった。

 三人が三人とも現在の生業、生活に未練は一切無い。それにしても、荒唐無稽としか言いようのない未来図を、いい齢した男どもが熱に浮かされたように思い描いては気炎を上げている。異様な光景だった。それほど彼ら日常の屈託と憂愁と焦慮の度が深いということか。少なからず「ござった」三人衆の、志の極めて低い悪巧みは、盃を重ねるにつれいよいよおぞましさの相を濃くし、敬虔の徒が目にすれば嗟嘆のあまり悶絶するであろう不埒な宴は深更にまで及んだのであった。

 

 十年はあっという間に過ぎた。廃校の窓を掠める爽涼の風を聞きながら、安宮と高緒は会衆に語る天沢の声の響きに来し方を思う。上手く行き過ぎたな。不純な動機を思えば、事がもったいないほど上首尾の裡に運んでしまった。心の一隅にわずかに残る良心が疼く。

「皆さんは神を見たことがあるでしょうか」

 天沢の講話が続いている。安宮が紡いだ言葉に、隠れた名優が息を吹き込んでいるのだ。

「私は常に神を見ています。ひとつ例を挙げましょう。一粒の種から芽生えがあり、葉が繁り花が咲き実りがある。日々目にするこれらは、思えば不思議なことではありませんか。この造化の妙を神と呼びます。自然が神である。天然の営みそのものが神の顕現なのです。私達はその美しい調和に感謝し、お蔭様と口に出し合いましょう。自然の摂理に首(こうべ)を垂れ畏れ敬いながら、皆さんささやかでいいのです、いつも心に念じませんか。炎天に苦しむ人のための木陰となり頬を吹く一陣の涼風になるようにと。酷寒に震える人のためには一本の薪(たきぎ)、渇いた人には一掬の水になりたい。そして飢えた人々のための一椀の粥となりましょう。孤独の中にあって眠られぬ人には、くすりと笑う笑いをもたらすことができますよう。自分のできる形で良いのです」

 この十年の間に天沢の声音は変わったな。高緒は思った。女達を夢中にさせるいかにも気取ったトーンは失せ、まるでやつ自身、自分の言葉を心底信じている風じゃないか。まあ役者の腕が上がったということなんだろう。でもそれだけでは割り切れぬ何かがあった。

 「また縁ある身近な人とのひと時を大切にしましょう。明日があることを願いはするけれど、明日がやって来ないかも知れぬことをも想いましょう。最愛の人と最後に交わす言葉が悪罵にならぬよう祈りましょう。もしかしたら、この時がこの人を見る最後かも知れないという思いが片隅にあれば、自ずと身と心に優しい抱擁を交わし合えるはずです」

 天沢が一揖すると、人々の漣のような拍手が起こる。御利益も処女懐胎などの超常も言わず、幽冥界に触れることもない。十年前の立ち上がりこそオカルトめいたことから始めたもののそれには限界がある。あやかしや奇跡を説かず怪力乱神を語らずだ。自然という充分過ぎる神秘の中に生きながら、それ以上の怪奇を仕立てる必要がどこにある。思弁とリアリズムとの間(あわい)こそが狙い目だ。それが俺の腕だと安宮は得意だった。あとは天沢の演技力あるのみだ。

「おじさん」

 五歳くらいの男の子が天沢に問いかける。袖へ帰ろうとしていた天沢がそちらへ目を遣った。

「死んだ大きいお姉ちゃんに会えますか?」

 天沢はうろたえた。自分はまやかし宗教の傀儡に過ぎない。安宮が集会のたびに物する聞いたふうな原稿を台本として、いかに聴衆を酔わせるかだけに腐心する飾り物教主だ。安宮の方を窺う。安宮も少し前なら気軽にその問いに答えられた。田舎の小児を言いくるめるのは手もないこと。でも今はそれができずにいる。

「わかりません。光君だよね、ごめんね」

 逡巡した末の、それが天沢の答であった。「おじさんは、ほんとは何にもわからないのです。でもね、光君がお姉ちゃんに再び会えるよう心から祈ることだけはできます」

 天沢が自分の言葉で語っている。安宮は、少し寂しいけれど嬉しい気もする。

「大きいお姉ちゃん、自分が死んでいくのがわかってたみたい。その前に誰かのために何かできないかしらって言ってた。おじさんが言うみたいにね。最期は家族のみんなとおじさん達に、有難う、有難うって。とっても綺麗な顔してた。僕、おじさん好きだよ。お姉ちゃんの綺麗なのが僕の自慢だったから。おじさんのお蔭で綺麗だったって思ってるから」

 その子の母親はトイレに行っていたらしい。慌てて飛んできて少年を抱えた。

「これ、教主様になんて失礼な」

「いえ、いいんです。有難うございます」

 信徒が引いた後の講堂に秋の西日が射している。壇上には三人がいた。天沢が口を開く。

「自分のやってきたことは醜い芝居だけど俺、語ってきたことは真実のような気がこの頃するんだよね。安宮が筆に任せて作り上げた物と知ってはいるんだが、これ正しいんじゃないかって思う瞬間があってさ。安宮、君さ、ペンを滑らせながら、誰かに、何かに書かされているって感じたこと無い?」

「この二年ばかりずっとそんな気分に襲われていたよ」

 安宮が度の強い鼈甲の眼鏡を押し上げながら応えた。天沢が続ける。

「さっき自分が語ったようにはけして生きられないけどさ、少なくとも、もうあの人達を騙し続けることはできそうにない。光君と亡くなった真耶ちゃんのことを考えるとさ。俺もちょっとだけ誰かのためになって死にたい気がする」

「俺も、世間に復讐したくて、腹の中で舌を出しながら綺麗ごと書き綴ってきたけどな、天沢の語るのを繰り返し聞いてると、口から出まかせの教条が、ひたむきに信じてくれる会衆の力で、あの人たちの澄んだ目のお蔭で、本物に窯変していくような気がしてるんだ」

「この宗教団体は金儲けのために作った。この次の集会日にそう白状するよ。皆さんに打ち明けて赦しを乞う。制裁は受ける。報謝いただいた金も何年かかろうと返す。でもさ、安宮の科白じゃないが、腹の中で舌を出しながら喋り散らしてきたことを、今は本当に信じているってことも言うよ。高緒、お前は?」

「ふん、まあな。さてどうするかな。いまさら真面目に働くのはしんどいしなあ」

 高緒は顔を顰めた。窓遠く飛行機雲が見えている。

「袋叩きへの腹構えはあるか?文字どおりのさ。大人しい人ばかりとは限らないんだぜ、ここの人たちだってさ」

「覚悟の前さ。な?」

「ふん、あの子のお姉ちゃん、真耶ちゃんか、俺達にも有難うって言ってくれたってか」

 二人は高緒の口元を息詰めながら見つめる。

「ふん、十年前あの宿で言っちまったもんなあ、事務は一切任せろってさ。せっかく法人登記もできたのによ。あ~あ、解散手続きも俺がやらなきゃなるめえな」

 三人は顔見合わせて笑った。飛行機雲が次第に太り、尾から静かに消えていこうとしていた。   ー了ー